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年 次 | 西 暦 | 年 齢 (数え年) |
月 日 | 海 舟 事 項 |
文政六 | 一八二三 | 一 | 正月晦日 | 江戸本所亀沢町の男谷邸に生まれる。父は勝小吉、母は信子。幼名・通称麟太郎。 |
文政十二 | 一八二九 | 七 | このころ | 十二代将軍家慶の五男初之丞に召されたという(九歳または十二歳まで)。 |
天保九 | 一八三八 | 十六 | 七月二七日 | 父小吉隠居し(号夢酔)、家督を相続。諱(本名)は義邦。 |
このころ | 島田虎之助に入門して剣術修業を始める。 | |||
弘化二 | 一八四五 | 二三 | 九月 | 岡野孫一郎の養女民子と結婚。 |
このころ | 永井青崖に蘭学を学ぶ。 | |||
弘化三 | 一八四六 | 二四 | 春 | 本所から赤坂田町に転居。 |
弘化四 | 一八四七 | 二五 | 秋 | 「ヅーフハルマ」を筆写開始(翌嘉永元年八月二日完了)。 |
嘉永三 | 一八五十 | 二八 | 九月四日 | 父小吉死去(四九歳)。 |
この年 | 赤坂田町に私塾を開き蘭学と西洋兵学を教授。 | |||
嘉永五 | 一八五二 | 三十 | 十一月 | 妹順子、佐久間象山と結婚。 |
この年 | 諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲を鋳造。 | |||
嘉永六 | 一八五三 | 三一 | 七月 | 「海防意見書」を二通提出。 |
安政二 | 一八五五 | 三三 | 正月十九日 | 大久保一翁の推挙で、蕃書翻訳勤務を命じられる。 |
七月二九日 | 長崎海軍伝習を命じられる。 | |||
八月七日 | 小普請組から小十人組となる。 | |||
九月一日 | 長崎に向かう(十月二十日長崎着)。 | |||
安政三 | 一八五六 | 三四 | 三月十一日 | 講武所砲術師範役となる。 |
六月晦日 | 海軍伝習の功により大番に番替えとなる。 | |||
安政五 | 一八五八 | 三六 | 二月より | 咸臨丸で下関・五島・対馬・鹿児島などを巡航。 |
三月・五月 | 鹿児島で島津斉彬に謁する。 | |||
安政六 | 一八五九 | 三七 | 正月十五日 | 長崎の伝習を終え、江戸帰府。 |
七月 | 赤坂氷川町に転居。 | |||
十一月二四日 | アメリカ派遣を命じられる。 | |||
万延元 | 一八六十 | 三八 | 正月十三日 | 咸臨丸で品川沖を出航、アメリカに向かう。 |
二月二五日 (和暦) |
サンフランシスコ到着。 | |||
閏三月十八日 (和暦) |
サンフランシスコを出航、帰国の途につく。 | |||
五月五日 | 浦賀に帰港。 | |||
五月七日 | 江戸に帰る。 | |||
六月二四日 | 蕃書調所頭取介となる。 | |||
文久元 | 一八六一 | 三九 | 九月五日 | 講武所砲術師範役となる。 |
文久二 | 一八六二 | 四十 | 七月四日 | 軍艦操練所頭取となる。 |
閏八月十七日 | 軍艦奉行並になる。 | |||
一二月十七日 | 老中小笠原長行に従い順動丸で大阪出張(文久三年正月十六日帰府)。 | |||
このころ | 坂本龍馬、海舟の門下生となる。 | |||
文久三 | 一八六三 | 四一 | 四月二三日 | 将軍家茂の摂津湾巡覧を案内、家茂から直接神戸海軍操練所設立の許可を得る。 |
十二月二八日 | 再上洛する将軍家茂を奉じて海路で大阪へ向かう(元治元年正月八日大阪着)。 | |||
元治元 | 一八六四 | 四二 | 二月五日 | 一橋慶喜より、長崎派遣を命じられる(四月十二日大阪帰還)。 |
五月十四日 | 軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。 | |||
五月二九日 | 神戸海軍操練所設置布達。 | |||
十一月十日 | 軍艦奉行罷免、寄合となる(慶応元年三月九日神戸海軍操練所廃止)。 | |||
慶応二 | 一八六六 | 四四 | 五月二八日 | 軍艦奉行再勤を命じられる。 |
八月十五日 | 一橋慶喜より長州藩との休戦と徴兵を調停する密命を受ける。 | |||
九月二日 | 安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談、休戦を協定(これより先長州藩に停戦と解兵の勅令が出され、交渉を困難にする)。 | |||
十月五日 | 大坂を発ち帰府。以後自ら職務を行わず、書見と詩に遊ぶことを表明。 | |||
慶応三 | 一八六七 | 四五 | 三月五日 | 海軍伝習掛を命じられる。 |
七月二五日 | 長男小鹿米国留学出発。 | |||
慶応四 | 一八六八 | 四六 | 正月十七日 | 海軍奉行並となる。 |
(明治元) | 正月二三日 | 陸軍総裁となる。 | ||
二月二五日 | 陸軍総裁を免じ、軍事取扱を命じられる。 | |||
三月十三日 | 薩摩藩邸にて西郷隆盛と会見。 | |||
三月十四日 | 田町にて再び西郷と会見、江戸無血開城を決める(四月十一日江戸城引き渡し終了)。 | |||
十月十一日 | 蒸気船で東京を離れ駿府に向かう(十二日着)。 | |||
明治二 | 一八六九 | 四七 | 七月十三日 | 安房守を安芳と改める。のちに安芳を本名とする。 |
七月十八日 | 外務大丞に任ぜられる(八月十三日辞退免職)。 | |||
十一月二三日 | 兵部大丞に任ぜられる(翌年六月十二日辞退免職)。 | |||
明治三 | 一八七十 | 四八 | 三月二五日 | 母信子、静岡で没。 |
明治五 | 一八七二 | 五十 | 五月十日 | 海軍大輔となる。 |
八月 | 静岡より帰京、赤坂氷川に居す。 | |||
明治六 | 一八七三 | 五一 | 三月三日 | 島津久光慰撫のため、鹿児島へ派遣の命を受ける。 |
五月二五日 | 大黒屋六兵衛より徳川家達に金子三万両を献金せしめ、これを元手に旧幕臣を対象とした金融を行う。 | |||
十月二五日 | 参議兼海軍卿となる。 | |||
明治七 | 一八七四 | 五二 | 七月三十日 | 台湾問題につき太政大臣三条実美に意見を述べる。 |
明治八 | 一八七五 | 五三 | 四月二五日 | 元老院議官に任命されるが、ただちに辞表提出(十一月二八日に承認)。 |
明治十 | 一八七七 | 五五 | 十二月二二日 | 長男小鹿帰国。 |
明治十一 | 一八七八 | 五六 | 三月二一日 | 西南戦争で薩摩軍への資金援助疑惑で東京警視本署(のちの警視庁)第三課より代人を通して尋問を受ける(数次にわたり弁明書提出)。 |
明治十二 | 一八七九 | 五七 | 七月三十日 | 木下川浄光寺境内に西郷隆盛追悼の碑を建立。 |
明治十三 | 一八八十 | 五八 | 二月二五日 | 保晃会設立に着手。 |
明治十六 | 一八八三 | 六一 | この年 | 吉井友実・税所篤らと西郷隆盛の名誉回復運動始める(明治十七年四月二五日 遺児寅太郎の参内で西郷隆盛の名誉回復)。 |
明治二十 | 一八八七 | 六五 | 五月九日 | 伯爵となり、華族に列す。 |
十二月 | 『吹塵録』『吹塵余録』成る。 | |||
明治二一 | 一八八八 | 六六 | 四月三十日 | 枢密顧問官となる。 |
この年 | 『海軍歴史』成る。 | |||
明治二二 | 一八八九 | 六七 | 十二月 | 『陸軍歴史』成る。 |
明治二三 | 一八九十 | 六八 | 七月十日 | 貴族院の伯爵議員に互選されたが辞退。 |
十二月 | 洗足池畔の土地を購入。 | |||
明治二四 | 一八九一 | 六九 | 七月九日 | 清国提督丁汝昌来訪。 |
この年 | 『開国起源』成る。 | |||
明治二五 | 一八九二 | 七十 | 二月七日 | 長男小鹿病死(四一歳)。二月徳川慶喜の十男精を養子にすることを内定。 |
明治二六 | 一八九三 | 七一 | 十一月 | 条約改正問題につき意見を徳川・島津家等へ送る。 |
明治二七 | 一八九四 | 七二 | 六月三日 | 日光に遊ぶ(六日帰京)。 |
七月十六日 | 日清両国の衝突につながる朝鮮出兵に反対する意見書を起章。 | |||
明治二八 | 一八九五 | 七三 | 五月二一日 | 朝鮮処分等につき意見書を起章。 |
明治三一 | 一八九八 | 七六 | 三月二日 | 徳川慶喜參内して天皇・皇后に拝謁し、名誉回復。 |
三月三日 | 慶喜、海舟宅を訪れ名誉回復の謝意を表す。 | |||
六月二九日 | 田中正造来訪、地獄か極楽で総理大臣という証文を書く。 | |||
一二月 | 清国より亡命の康有為に、日本の力を頼りにするなという書を送る。 | |||
明治三二 | 一八九九 | 七七 | 一月十九日 | 自邸で死去(発喪は二一日)。 |
一月二五日 | 青山墓地で葬儀。洗足池畔に葬る。 | |||
江戸東京博物館「没後百年勝海舟展」より転載 |