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私と海舟

このコーナーでは「勝海舟の銅像を建てる会」に協賛いただいております皆様に「私と海舟」というテーマで綴っていただき、リレー形式でご紹介いたします。

江戸開城の図

新選組と勝海舟

佐久間象山が暗殺され、その一子格次郎が親の仇を討つために新選組に入隊した。近藤勇・土方歳三に口を利いたのが勝海舟である。小遣いをだいぶ奮発したらしい。象山と死別した母順子(海舟妹)は、倅の仇討ちの助けにと腕の立つ村上政忠と再婚したが、大酒呑みで願いかなわず離婚して氷川亭に戻って暮らしていた。新選組に入隊した佐久間格次郎も酒食におぼれ、仇討ちは頓挫したのである。

アーネスト・サトウ撮影の写真を川村清美が描写したものである。四十六歳の写真である。私は新選組のファンであるが海舟は、近藤・土方には結構小遣いをやっていたと鵜澤会長がおっしゃるので、その恩返しにと銅像造りのお手伝いをしています。

(絵・江戸博所蔵)


商人魂を復活させた海舟の書

 文京区本郷三丁目に江戸創業の和菓子の老舗「壷屋」がある。このお店は現代の当主入倉芳郎さんで十七代目。
手ずくりの和菓子をつくりつ続けて約三百六十年。「壷壷最中」「壷最中」など登録商標のお菓子が目白押し。その店先に掲げられている額「神逸気旺」の四文字が海舟の直筆なのだ。(写真参照)

壷屋は江戸の町民が最初に出した菓子屋。それ以前は総べて上方からのお店ばかり。当時、幕府御用達として営業、もちろん甘党の勝海舟も贔屓にしていた。明治維新当時の当主は江戸っ子の意地、商人道を通して「新たに下ってきた官軍、上方に売りたくない」と暖簾を下ろしてしまった。そのことを知った勝海舟は店の再開を勧めるために前記の文字を書いて贈ったという。
「神を恐れず気力を持て」という意味のこの書は、新時代到来に向けて庶民の気力を促した。以来今日まで変わらぬ味を作り続けている。店は若い女性の一見さんや地元の常連さんたちで繁盛。勝海舟のこうした書や逸話は数えきれない程あるという。

              汗を流す課  気のいいおやじ

 以前HPの読者から海舟の筆跡の問い合わせがあったことから、この文を下町タイムス323号から転載させていただきました。    


勝海舟のルーツ、柏崎を訪ねて

*米山検校の墓へ
 今度はじめて、勝海舟の実家を訪ねてみた。狸しか出会わないような山里なのに道路が素晴らしい。さすが田中角栄の地。米山検校(のちに男谷検校と改姓。海舟の曾祖父)は、さしずめ現代版田中角栄だったようだ。随分と村のために寄付をし村お越しの力になった。その証に御礼等塔が建ち残っていた。(写真参照)

柏崎にある善勝寺が母方の縁戚につながるという丸山茂副会長は、以前から聞き知っていた米山検校の墓に詣でた。米山検校は曾祖父にあたるひと。越後三嶋郡長島村に生れ盲目の身でありながら江戸へ出て、巨万の富みを得る。そして旗本男谷家の蕪を手に入れ、男谷と改姓、ついでその息子平蔵がご家人株「勝家」を手にした。その検校出生の地が現・柏崎市北条町長島。関越自動車道を長岡から国道8号線に入って三十分。村は今では数軒しか人家がない寒村。この地で代々検校の墓守りをしているのが分家筋の山上家。
 柏崎にある善勝寺が母方の縁戚につながるという丸山茂副会長は、以前から聞き知っていた米山検校の墓に詣でた。米山検校は曾祖父にあたるひと。越後三嶋郡長島村に生れ盲目の身でありながら江戸へ出て、巨万の富みを得る。そして旗本男谷家の蕪を手に入れ、男谷と改姓、ついでその息子平蔵がご家人株「勝家」を手にした。その検校出生の地が現・柏崎市北条町長島。関越自動車道を長岡から国道8号線に入って三十分。村は今では数軒しか人家がない寒村。この地で代々検校の墓守りをしているのが分家筋の山上家。
 現在の当主山上康弘氏(八十歳)の案内で、斜面に建つ検校の墓碑や検校が建立したという良心のお墓にお参り。また村の為に尽力した検校に感謝した村人達が、貧しさの中で必死に祀り残したという「御礼塔」にも案内していただいた。真夏の木漏れ日の下にひっそりと傾きかけて建つ海舟のルーツに時空を超えて鎮魂の意を捧げてきたと話す丸山副会長。(写真参照)歴史や学問上の勝海舟を今度は肌身に感じ、一歩も二歩も身近になった気がする。
墓参の詳細は二面に転載したエッセイを皮切りに「建てる会」のホームページに掲載する予定という。(丸山 茂 執筆/下町タイムスより転載)

勝海舟は祖先の地を知っていたか

 勝海舟は生前始祖の地を知っていなかったと思います。上越市文化財委員の渡辺慶一氏の勝海舟の粗、米山検校の一文によって男谷家の祖先が明るみにでたので私は、勝海舟先生、男谷家、米山検校のキーワードで米山検校の生地は新潟県柏崎市長島であることは知っております。昨年、長島を訪問して山上康弘氏よりお話を伺いましたところ明治に先代の頃、勝海舟より山上家、長島が祖先の地ではないかとの問い合わせがあったが、勝海舟先生は政府の高官でもあり、畏れ多いと思い「違う」と返事をしたとのことである。現在勝海舟先生の手紙は、燃やしてないそうです。従って海舟先生は長島を訪ねてないといっております。果たして先祖をどこまで知っていたのか?
海舟先生に聞いてみたいと思います。

            勝海舟の銅像をたてる会 副会長  丸山  茂


私と海舟

 私は 子母沢 寛先生の親子鷹を読み、海舟が偉大な人物であることを知りました。江戸を戦火より救った勝・西郷両雄の会談は忘れることが出来ません。その西郷隆盛には上野の山の一等地に立派な銅像があります。このたび日本大学名誉教授鵜澤義行先生の「海舟の銅像を建てる会」に賛同させて頂きました。

 当時 江戸は百二十万の人口を有しておりました。ちなみにロンドンは六十万人と伺っております。

 海舟の幼名は鱗太郎で父は小吉。小吉は男谷家より勝家に養子となりましたが、勝家は貧しいため男谷家の一角に住まい、鱗太郎はここで誕生しました。鱗太郎は幼少の頃、野犬にかまれて重傷を負いました。父小吉は近くの妙見堂に水垢りをして「私の一命に替えても鱗太郎をお助け下さい」と祈願をし、一命を取り止めたそうです。

 男谷家の義兄、精一郎は剣聖といわれた人で鱗太郎はこの人から武芸を学び、七歳の頃 将軍家第五子(一橋家を継いだ)に仕えたが主が夭逝したため希望は夢に消えたと伝えられております。

 長じて長崎の海軍伝習所に学び、オランダ商館長より高価な辞典を見せられたが買えないため辞典を借りて写したといわれております。このころ佐久間象山・坂本龍馬等と出会い、海舟の妹を象山に嫁がせた。

 航海術を学んだ海舟は、咸臨丸にてサンフランシスコに向かい航海の記録を残しているが文久元年には小笠原諸島に米国人が入植したことをしり、海舟は咸臨丸にて調査に赴いた。この記録がのちの小笠原諸島の日本への帰属に役立ったと伝えられております。

 薩・長・土・肥の連合軍総大将西郷隆盛は錦の御旗を先頭に、江戸池上本門寺に宿営。訪ねた海舟は薩摩江戸屋敷にて会談を約す。このときの状況はNHK堂々日本史によると西郷隆盛は、海舟を評してこんな大きな男は見たことがないと驚いたと報じております。西郷との会談で海舟は内戦は絶対してはいけない「内戦になれば英国・仏蘭西がそれぞれ援軍を申し出ていて中国やインドの二の舞になる」と西郷を説得した。

 海舟は大政奉還以来、維新政府以後も国内外に於ける活躍はめざましく、国の要職についても、その職に長く留まららなかった。、中国の思想家道家老子曰く「上善水如」と。

 維新から明治に至る功績により伯爵に任ぜられるも生前返上してしまった。私は偉大で無欲の人勝海舟の功績を讃えて、縁の地・郷土に銅像の建立を是非実現させたいと、切に願っております。

墨田区文化観光協会 会長  山田 実


私と勝 海舟

私は墨田で生まれ、墨田で育ち、そして墨田で暮らし、この地で事業を行っています。勝海舟という名前は歴史上の一人物、江戸城無血開城の功労者ぐらいの認識しか持ち合わせておりませんでした。学生時代の恩師でもある鵜澤義行日本大学名誉教授(会長)の勝海舟の講演を拝聴、そしてこの活動に参加し、海舟のことを学ぶにつれ、知れば知るほどこの郷土が生んだ一人の男への尊敬の念が深まります。

 坂本龍馬、西郷隆盛に対して大きな影響を持ち、幕臣でありながら徳川家の事ばかりでなく、大局的に日本の将来を見据えた行動。時の世界情勢を的確に捉え、欧米列強に屈することなく、絶妙なるバランス感覚を発揮した外交手腕。現在の閉塞した日本に一番必要な人物ではないでしょうか?

 この近代日本の構築の最大の功労者である勝海舟、過去の功績を顕彰する事はもちろんですが、これからの将来の日本を背負って立つ青少年諸君、また教育、歴史、文化を重んじる人達に、是非この海舟の精神を受け継いでもらいたいと考えこの活動に参加させていただいております。この生育の地に銅像を建て、海舟の精神の発信基地となるよう願っております。

 何卒、皆様のご協賛・ご賛同を、お願い申し上げます。

副会長  廣田 健史


海舟を想う

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